フラワーガール
来客用の大きな黒いソファに黒いテーブル。その場所を招かざる客が占領している光景に遭遇したとき、左近は驚きというよりも呆れた気持ちのほうが勝ってしまい、思わずため息をついてしまった。しかもその客が当然のように「お帰りなさい」というものだから、なおさらだ。
ブレザーにやや短めのスカート。黒い靴下にこれまた黒いローファー。ソファに置かれた合皮の通学カバンはチャックが開いていて、そこからルーズリーフのファイルやらかわいらしい手帳やらペンケースやらが見える。デスクに置かれた携帯には猫だかネズミだかわからない、かわいげが有るような無いようなキャラクターのストラップ。
「……さん、何してるんですか。法律事務所に不法侵入とはいい度胸ですな」
は袋から無糖の缶コーヒーを取り出して左近に手渡す。滞在費のつもりなのだろうか。まあいいか、と左近は全てを諦めて自分のデスクに書類ともらった缶コーヒーを置く。事務所の開業時間まであと一時間半ほどあるし、不法侵入でもないので無理に追い出す理由も無いのだから。
「さん。学校はどうしたんです?」
ミルクティーと一緒に買ったらしい卵サンドの包みを開けながらは答える。どうやらここを始業時間までの休憩所代わりにするらしい。汚さないようにしてくださいよ、と左近は注意して、彼は今日の仕事に関する書類に目を通し始めた。この子はこんな子だったっけ、と一ヶ月前のことを思い出しながら。
左近がと出会ったのは一か月前、駅前のコンビニだった。
(まあ若い子は元気が一番だな、なんておっさん臭いな)
卵サンドを平らげたは、カバンの中から単行本サイズの本とルーズリーフを取り出した。左近はその本に見覚えがあった。彼も学生時代にお世話になったそれに懐かしさを覚えて目を細める。
「参考書。英語ですか」
まるで「ちゃんとやってるんだよ」とでも言うように、はそれを取り出してひらひらと左近に見せびらかした。買ってから少ししか経ってないのだろう、まだ綺麗なままの表紙。それが来年の今頃にはボロボロになっているだろうな、と彼の頭に名誉の傷を負った単語帳が浮かんだ。
「ま、分からないところがあったら分かる範囲で教えてあげますよ」
どこの大学に進学するかは知らないが、本人の望む所に行ってくれれば人生の先輩としても嬉しいものがある。彼女の姿に若い頃の自分を重ねた左近はそう言うと、はぱっと嬉しそうな顔を見せた。「本当に?」と念を押して左近が頷いたのを見るとまた笑顔になった。年相応のかわいらしい笑顔だった。
「ねぇ、左近さん。私、左近さんみたいに弁護士になりたいんだ」
「左近さんみたいに格好良く困ってる人を助けられるような人になりたい。だから法学部に行って、ロースクール? に進学して……私は頭がよくないからきっと何年もかかりそうだけど、絶対なってやるんだ」
その弁護士バッジも付けてみたいしね、と冗談めかしては左近のスーツに付けられたバッジを指差す。未来の後輩候補の明るい笑顔につられて、左近の口元が緩んだ。
「ま、――」
”頑張ってくださいよ”そう言おうとした左近の言葉を、けたたましい振動音が遮った。音の発信源はマナーモードに設定されているの携帯からで、メールの受信を告げる光がキラキラと光っている。
「やっば、と約束してたの忘れてた!」
「また近いうちにくるね、左近”先生”」
のばいばーい、とドアが閉まる音が聞こえたのはほとんど同時だった。ばたばたと階段を降りる音が聞こえなくなったすぐ後に、恐らく大慌てで走るとすれ違ったのだろうか、怪訝そうな顔をして入ってきた石田法律事務所の所長に左近は言った。いい人材が見つかりそうですよ、と。 |